命の声

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ホーム JF共済について 命の声 第4号 「災害の教訓を後世につなぐ」

「災害の教訓を後世につなぐ」

JFひやま 総代
指導漁業士

小濱こはま 洋介ようすけ さん

北海道

■ 何としても子どもは守る

 北海道南西沖地震のとき、私はまだ中学生でした。2階の自室で寝ていたところ急な揺れに驚いて飛び起きましたが、散乱した物に阻まれて、しばらく身動きが取れませんでした。どうにか部屋の外に出て、1階にいた家族と無事を確認し合いました。揺れの次に警戒すべきなのは津波です。自宅は高台にありましたが、より高い場所を目指して車で避難しました。

 私たちが自宅で被災したちょうどその頃、漁師である父親は沖でイカ釣りをしていました。海にいても地震があったことが分かるほど、船が大きく揺れたとのことです。7月はイカ漁の最盛期。陸から遠く離れた奥尻海峡の真ん中あたりで漁をしていたため、津波に巻き込まれずに済みました。沖から奥尻島の方角を見ると、停電で町の明かりは消えていたものの、青苗地区で起きた火事で空は真っ赤に染まっていたそうです。昭和58年に日本海中部地震を経験している父は、家族や島内の様子が心配で、すぐに港に戻ろうとしました。しかし潮位の変動が大きく、船を着けることができず、港に入れたのは夜明けを過ぎてからでした。

 津波の被害が特に大きかったのは、島南西部の藻内地区で、最大約30メートルの津波が押し寄せたと言われています。藻内地区から少し北にあるホヤ岩近くで民宿を営んでいた祖父母は津波で亡くなりました。後日現地を訪れた際、民宿の建物は跡形もなくなり、電線に海藻が引っ掛かっている光景を目にして、津波の脅威をまざまざと実感しました。
 あれから30年以上が経ち、私も子どもを持つ親になりました。阪神淡路大震災や東日本大震災など大きな地震が起こるたびに昔の記憶がよみがえり、「家の中にいても決して安全ではない」「何としても子どもは守る」と、気持ちが引き締まります。

■ さり気なく伝える防災の心得

 日本海中部地震と北海道南西沖地震。奥尻島は10年間で二つの大きな地震と、それに伴う津波に見舞われました。その経験と教訓を生かすために、島の小学校では子どもたちへの防災教育が行われています。令和6年の能登半島地震の際、この辺りにも津波注意報が発令されたのですが、小学生の娘は率先して荷物をまとめ、逃げるための準備を始めました。「地震が起きたらすぐに安全な場所に避難する」という意識・習慣が身についているからこその行動だと感心しました。
 学校の教育が行き届いているため、私から娘に対し、あらたまって防災の話をすることはありません。しかし、例えば散歩の途中に「この山の上では山菜が採れるよ。近くで地震があったら、そこに逃げるといいよ」といったアドバイスを時折しています。
 津波から命を守るためには、絶対に海に近づかないこと、そしてできるだけ高い場所に逃げることが大切です。普段からの備えと心構えがあれば、災害発生時に適切な対応ができます。そうしたことを堅苦しくではなく、日常生活のなかでさり気なく娘に伝えるようにしています。その繰り返しが、災害の教訓を後世に伝えていくことにつながるのだと思います。

「平成5年北海道南西沖地震(奥尻島東部)」
地震直後、奥尻港フェリーターミナル裏手の観音山で大規模な崖崩れが発生した。フェリーターミナルは奥尻島の海の玄関口にあたり、周囲にはホテルやレストラン、灯灯の備蓄タンクなどがあった。それらが一瞬のうちに土砂に飲み込まれ、島外の宿泊客をはじめ29人の命が奪われた。
その場所から程近い赤石地区でも、漁港が損壊するなどの被害があり、住民の生活に大きな影響を及ぼした。

  • 地震後の津波と火災で焼け野原になった青苗地区

    地震後の津波と火災で
    焼け野原になった青苗地区
    (提供:防災システム研究所、
    撮影:山村武彦氏)

  • 地震で火災が発生した青苗地区

    地震で火災が発生した
    青苗地区
    (提供:奥尻町教育委員会、
    撮影:鎌倉照夫氏)

※所属・役職等は発行当時のものです。