命の声

命の声

「地震ととも逃げろ」

宮城・JFみやぎ矢本やもと支所 支所長

鴇田 勇一 ときた ゆういち さん

宮城県東松島市

鴇田鴇田の写真

 私は、JFみやぎ矢本支所に勤める職員です。震災の時は4名の職員で支所に勤務していました。矢本支所は、塩竃市の東に位置する東松島市にあり、航空自衛隊の滑走路がある広い平野が広がる平坦な地形です。
 私の『命の声』は、「地震とともに逃げろ」としました。漁船で沖に避難された漁業者の方の声もあるでしょうが、陸を逃げることに対する声です。
 地震は大きな揺れでしたが、職員の全員が無事でした。現金などを金庫に保管し、私以外の職員には避難を指示して直ちに帰しました。支所の目の前にあった防潮ゲートを組合員の方と一緒に閉めていたとき、気仙沼を大津波が襲ったという一報が入り、海をみると既に大きな津波が向かってくるのが見えました。
 急いで、1階建てだった事務所に入ったものの津波に襲われ、侵入する海水は次第に水位が上昇していきました。呼吸ができなくなりそうになったところで、窓から外へ出て、たまたま手につかんだ電線をつたい、隣の建物の2階屋根の上に避難しました。津波はあらゆるものを押し流し、どんどん周囲を呑み込み、周りの全てが海になっていきました。
 押し寄せる波と引き波を4・5回繰り返していたと思います。漁船やパルプ工場から流れてきたと思われる丸太やコンテナなど考えられない大きさのものが、私の周りを海水と共に流れていきました。瓦礫の中から燃えそうなものを拾い、逃げたスペースで火を焚いて、救難の合図にしました。翌日上空にヘリコプターが飛んで来ましたが救助されず、昼過ぎに自力で避難場所を目指しました。
 『命の声』を「地震とともに逃げろ」としたのは、津波の警報や目視を待たずに即「避難行動を行う」という思いからです。これは、この地区のように丘陵や高台、起伏の高い土地が全くない平坦な地区で津波に遭遇した場合の『命の声』であり、漁港近くに居住していた組合員や住民の方々は、地震により電線が切断され防災無線も機能しなかったことで少し遅れて自家用車で避難をしましたが、避難路が自家用車で渋滞してしまったことを教訓とするものです。
 避難の目標とした国道までは約2㎞ありました。歩いても、走っても津波から逃げ切ることは不可能であり、津波は国道を超えさらに奥まで到達したのです。車の中で津波に呑まれた方の多くが犠牲者になりました。地震に遭遇した場所によっては、一刻も早く行動しなければいけないことを知って頂きたいと思います。
 私の家族もまた、自家用車で逃げたものの津波に呑まれました。幸運にも近くに流されてきた漁船の上に登って、命が助かったのです。
 津波が襲った一帯は、瓦礫はもちろん様々なものや泥などが堆積し、足をとられて移動は非常に難しいです。私は、津波が届かない高い場所に流れ着き、大きな流出物が衝突しなかったことなど、いくつもの偶然が重なり、今生きています。
 また、一人屋根の上で孤独になり、見渡す限りの惨劇で絶望した私の気持ちを助けてくれたのは、「トキタさーん」という声掛けでした。近くのやはり屋根の上に避難した方の「声」が、「励まし」が、生きる希望をくれました。

※所属・役職等は発行当時のものです。