
「手足が動くなら、まずは逃げて」

JFあきた中央支所中央北地区
前秋田県漁協女性部連絡協議会会長
新城谷 恵美子 さん
■ 海は渦を巻いていた
昭和58年5月26日11時59分、マグニチュード(M)7.7の大地震に見舞われました。秋田・青森県沖を震源とする日本海中部地震です。場所によっては5メートルを超える高さの津波が押し寄せ、ここ男鹿半島でも多くの死傷者が出ました。自宅そばの病院を出入りする救急車のサイレンは夜中まで鳴り止むことがありませんでした。地震が起きたとき、私は朝の漁を終えた夫と自宅で昼食を食べようとしていました。揺れが激しく、このまま家の中にいては危ないと思って外に逃げましたが、幸いなことに家具が倒れるなどの被害はありませんでした。

地震が起きた年、港近くにあった漁協は新しい建物に引っ越していました。そのおかげで職員は津波の被害にあわず、古い建物にあった空の金庫が流されただけで済みました。そのほか、川を逆流してきた津波に小屋が流されたりもしましたが、他の地域と比べて被害は少なかったように思います。とは言え、すぐに漁を再開し、日常生活を取り戻せたわけではありません。その後も余震が続いたので、夫には「しばらく漁には出ないで」と伝え、夫も了承してくれました。津波は、私たちの暮らしを大きく変えてしまいました。
■ 津波の力にはあらがえない
これまでに大きな自然災害の経験がなかったので、日本海中部地震の体験は本当に衝撃的でした。護岸にあった大量のテトラポットが流され、跡形もなく消えている光景を目にしたとき、津波の恐ろしさをまざまざと感じました。巨大なテトラポットさえ押し流してしまう津波に、人間の力であらがうことはできません。だから私たちは、津波が来たら逃げるしかないのです。
この地域では古くから「日本海には津波は来ない」と言われていました。地震が起きたとき、夫も「津波なんて来るわけがない」と言っていました。しかし実際に津波が来て、その恐ろしさを経験したことで住民の意識は変わりました。私も今では「地震=津波」と考えるようになりましたし、大きな地震が起きたときにどうするかを家族で話し合う機会も増えました。次に来る大災害に備えて、住民同士が協力して定期的に避難訓練も行っています。「手足が動くなら、 まずは逃げること」。これが、津波の脅威を目の当たりにした私が皆さんにお伝えしたい「命の声」です。

「昭和58年日本海中部地震(男鹿半島)」
強い揺れのあと、日本海沿岸を中心に津波が襲い、全国で104人、うち津波で100人の方が亡くなった(秋田県は最多の79人)。男鹿市の加茂青砂海岸では、遠足で訪れていた北秋田市の旧合川南小学校の児童13人が犠牲となった。
当時、地震発生から約15分後に津波警報が発表されたが、既に津波の第1波が到達していた地区もあった。この地震を機に、津波警報発表の迅速化が進められた。
-
津波で流された車=男鹿市戸賀湾
-
防波堤に残された漁船=男鹿市加茂青砂
(出典:秋田地方気象台ホームページ)
※所属・役職等は発行当時のものです。