
「慌てずに行動し、助け合う」

東京都漁業協同組合連合会代表理事会長
JF三宅島 代表理事組合長
関 恒美 さん
JF三宅島 職員
福本 真弓 さん
いきいきお魚センター
青沼 恵子 さん
■ 災害はいつ来るかわからない(昭和58年)
三宅島の噴火は、かつては「一生に一度」と言われていましたが、昭和以降はおよそ20年間隔で起きています。溶岩流が流れるスピードは速くありませんが、被害範囲が広く、行く手を阻まれると逃げ場がなくなってしまうのが怖いところです。昭和58年の噴火のときは、雄山の南西山腹に割れ目ができて火柱が立ちました。溶岩流は谷筋を伝って島の南南西方向と西方向に流れ、私たちが暮らす阿古地区の住家約400棟を飲み込みました。
住民は、役場が用意したバスに乗り、島北部の伊豆地区に避難を済ませていたので、亡くなった人はいません。高齢者のなかには「自宅で死ぬ」と言って家に留まる人もおり、説得して連れ出し、避難させました。漁師は、それぞれの船で神着地区に向かいました。現場に残って活動を続けた消防や警察など約200人も、漁師が船で運びました。

■ 復興に向けた長い戦い(平成12年)
皆さんの記憶にあるのは、全島避難が行われた平成12年の噴火だと思います。7月から断続的に噴火が続き、8月18日に最大の噴火があり、噴煙の高さは14,000メートルにも達しました。全島避難が決定したのは、それから約2週間後の9月1日です。
避難生活は約4年半にも及びました。避難者は、都が提供した公営住宅などに住み、働ける人は現地で仕事をしました。
漁業者の多くは静岡県下田市や式根島に避難しました。初めの頃はガスがひどくて、島に近づくことができませんでした。その後、復興本部が神津島に設置され、調査のために三宅島を訪れる都の職員らを送迎するために船を出したりもしました。船ごと避難したので、避難生活中も漁を続けることができたのは良かったです。噴火直後は、山の養分が海に流れてカンパチがよく取れましたが、それも一時的でした。
4年半ぶりに帰島して、顔なじみに会えたことはうれしかったですが、長い間放置された自宅を片付けるのに苦労し、元の生活を取り戻すまでに10年くらいはかかったでしょうか。漁業に関しては、沖合の漁場は大丈夫でしたが、土砂の流入や降灰のあった沿岸の漁場は大きな被害を受けました。また、阿古地区では被災した桟橋がしばらく使えず、魚を水揚げできるようになるまでが大変でした。噴火のある島に暮らす私たちが心がけているのは、「津波が来たら即避難。噴火が起きたら慌てずに行動し、避難も復興もみんなで助け合う」です。

「昭和58年三宅島噴火」
10月3日15時23分頃、雄山の南西山腹に生じた割れ目から噴火が始まった。南南西方向に流れた溶岩流は粟辺地区を横切り海中へ。西方向に流れた溶岩流は阿古地区の住家約400棟を焼失・埋没させ、海岸近くで止まった。噴火前後には約100回の有感地震があり、最大震度5を記録した。
島民は、島北部の神着地区などに避難を行い、人的被害はなかった。
「平成12年三宅島噴火」
6月26日18時30分頃、三宅島南西部を震源とする火山性地震を観測。避難勧告が発令された(29日に全面解除)。
7月4日頃から再び地震が観測され始め、8日に山頂で小規模噴火。その後も断続的に噴火が続き、18日に最大の噴火が発生した。29日の噴火と火砕流の発生を受け、9月1日に全島避難を決定。避難指示が解除されるまでの約4年半、島外での生活を余儀なくされた。
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溶岩流に埋め尽くされた旧阿古小学校の校舎
※所属・役職等は発行当時のものです。